明確なものよりも、曖昧なものに惹かれる瞬間がある。
白でも黒でもなく、グレーのままで置いておきたい気持ち。はっきり「好き」と言えるわけじゃないけれど、なんとなく惹かれる。そんな曖昧さが、わたしという存在を形づくっている気がする。
社会に出ると、「自分の軸を持つこと」や「決断力」が求められる場面が増える。答えを出すこと、はっきりさせること。それはもちろん大切だ。でも、ときには、その中間にある揺らぎや迷いこそが、等身大のわたしを映している気もする。
曖昧さ=弱さ、ではない
「優柔不断」や「はっきりしない」と言われることを恐れて、つい明確な答えを出そうとしてしまう。でも、それって本当に自分の気持ちに正直なのかな?
むしろ、白黒つけられないくらい、気持ちが入り混じっていることだってある。好きと嫌いが同居していたり、自信と不安が同時に湧いてきたり。それって、人間らしさそのものだと思う。
曖昧さは、わたしたちの感情のグラデーションを映すキャンバス。
たとえば、誰かとの関係で「付き合ってるってわけじゃないけど、友達とも違う」という微妙な距離感。かつてのわたしなら、その不確かさに焦れて「ちゃんと答えを出して」と迫ったかもしれない。でも今は、そのグレーな関係性に、安心する瞬間もある。
「わからないまま」を許せる自分へ
30代になって、いろんなことが見えてくる。自分の得意不得意、好きなもの、譲れないこと。そして同時に、「結局よくわからないままのこと」もあるということ。
たとえば、なぜか惹かれる街角の風景とか、説明できない相手への安心感とか。ロジカルに言語化できない感覚のほうが、実はずっと深く心に根を張っていたりする。
そんな「わからないまま」を、わからないままそっと抱きしめる。それが少しずつできるようになってきた。曖昧であることを、無理に意味づけしなくてもいい。心のままに、未定のままに、置いておく。
「あいまい」の中にある輪郭
おもしろいもので、あいまいなままでいた時間ほど、あとからその意味がじんわりとわかってくることがある。あの時、即決しなかったからこそ出会えた人、気づけたこと、進めた道。
「曖昧さ」には、選ばなかった可能性を肯定するやさしさがあると思う。何かを切り捨てる代わりに、もう少しそのまま様子を見てみる。そんな姿勢は、決して消極的なんかじゃなくて、むしろ丁寧な生き方だと思える。
曖昧さの中に、実はわたし自身の輪郭がくっきり浮かび上がっている。
結論を出すことが目的じゃない
私たちは「何かを選ぶこと」で、前に進んでいると信じがち。でも実は、選ばずに抱えていることの中にも、大事な種がまかれている。選ばないことで、成長していることもある。
たとえば、仕事で「自分に向いているのは何か」を見つけるまでに時間がかかったとしても、その迷いの時間があったからこそ見えてくる景色がある。明確な夢がなくても、「なんか好きかも」で続けていることが、いつしか輪郭を帯びてくることもある。
だから、曖昧であることを、恥じなくていい。
おわりに:あいまいに生きる強さ
わたしは、きっとこれからも曖昧なままで生きていくんだと思う。
だけど、それは何かから逃げているわけじゃなくて、「曖昧でいることを許せる強さ」を少しずつ身につけてきたということ。グレーゾーンの中にある微妙な機微や、かすかな変化に気づけるようになったこと。それは、かつてよりも確実に自分と向き合えている証なのかもしれない。
明日もまた、はっきりしない気持ちと一緒に、曖昧なわたしとして、静かに歩いていこうと思う。
そんな生き方も、案外悪くない。

