「じっとしていられない」「集中力が続かない」「考えるより先に動いてしまう」。

そんな特徴を持つ人に対して、私たちは無意識のうちに「落ち着きがない」とか「わがままだ」とか、少し否定的なラベルを貼ってしまいがちです。特に子どもの頃には、「ちゃんと座ってなさい」と注意されることも多く、周囲から「多動」として扱われることは、時に自己肯定感の低下にまでつながってしまうことがあります。

でも、そもそも「多動」って、そんなに悪いことなのでしょうか?

「多動」とはなにか——医学的な枠を超えて

まず整理しておきたいのは、「多動」は必ずしも病気や障害を意味する言葉ではない、ということ。

たしかに「ADHD(注意欠如・多動症)」という診断名の一部として「多動」が使われることがありますし、医療機関では診断の一助として重視される指標でもあります。でも、診断基準というのはあくまで支援のための枠組みであって、「こういう性質の人は生きづらさを感じやすいですよね」と可視化するためのもの。

日常の中で見られる「多動的な傾向」すべてを病理と結びつけるのは、ちょっと早計です。

「多動」とされる行動は、個性の一部でもある。

むしろ、そのエネルギーこそが創造性や行動力に繋がることも多く、社会の中で貴重な役割を果たす存在だという視点もあるのです。

大人の多動——社会との摩擦と誤解

「大人になれば自然と落ち着いてくる」

そう期待されがちですが、実際には、大人になっても多動的な特徴が続く人は少なくありません。

会議中にそわそわしてしまったり、話を遮ってしまったり、タスクが並行すると頭が混乱してしまう——。そういった行動が、職場や家庭など「静かさ」「秩序」「我慢」が重視される場面で浮いてしまい、「空気が読めない」と評価されることも。

けれど、それは本当にその人自身の問題なのでしょうか?

例えば、クリエイティブな業界では、次々にアイデアを出していくスピード感や、状況に応じて瞬時に動ける軽やかさが重宝される場面もあります。つまり、「多動的」とされる性質は、ある環境では弱点として扱われ、別の環境では強みとして認められる。どちらが正しいというより、ただの「相性」なのかもしれません。

社会が求める「静けさ」は誰のため?

多動に限らず、「静かであること」「集中できること」「我慢できること」が“正義”とされがちな空気は、私たちの社会全体に根深く存在しています。

でもそれって、本当に誰のための価値観なのでしょうか。

誰かが教室で動き回ることで、他の人の集中が削がれるという声もあるでしょう。確かに、それは一つのリアル。でも、「静かにしていればみんなが幸せになれる」という前提そのものが、そろそろ問い直されてもいいのではないかとも思います。

「静けさ」が全員にとっての快適とは限らない。

むしろ、静かさが重視される場で、息苦しさを感じている人もきっといるはずです。だからこそ、個々の特性にもう少し寛容な視点を持ちたいと思うのです。

多動の裏側にある「感覚の鋭さ」

多動的な行動の背景には、実は感覚の鋭さや、情報への過敏さがある場合も多いと言われています。

周囲の音や光、匂いに敏感だったり、微細な変化に気づきやすい。あるいは、頭の中で考えがとめどなく巡っていて、体がそれについていけず「動いてしまう」ということも。

そうした感覚は、アートやデザイン、サービス業など、人の機微を捉えるような仕事で活かされることもあります。つまり、見方を変えれば「多動」というのは、ある種のアンテナの鋭さでもあるんです。

「責める」ことがもたらす静かな暴力

ここで一度立ち止まって考えたいのは、「多動的な人」を責めるとき、私たちはどんなメッセージを発しているのかということ。

「落ち着いて」「空気を読んで」「それ、今じゃない」

それらの言葉は一見やさしくても、実は「あなたのままではダメ」という否定を含んでいる場合があります。本人もわざとやっているわけではないのに、何度も同じように注意されることで、自信を失っていく。

「許される多動」と「責められる多動」の境界線

不思議なことに、同じような行動でも、それが“誰によって”“どんな場面で”行われるかによって評価は大きく異なります。

例えば、プレゼンの場で身振り手振りを交えて熱く話す人は「エネルギッシュ」「熱意がある」と評価されがちです。一方で、静かな場で落ち着きがない様子を見せると「集中力がない」「落ち着きが足りない」といったマイナスのラベルが貼られることも。

この違いは、結局のところ「社会がその場面に求めているふるまい」と一致しているかどうか、に過ぎないのかもしれません。

つまり、「多動」が責められているのではなく、「期待されたふるまいと違うこと」が問題視されている。そう考えると、多動的な人が責められるのは、その人のせいではなく、社会の枠組みがあまりにも硬直的だからとも言えるのです。

子ども時代に感じた違和感、大人になっても残るもの

私たちの多くは、子ども時代に「落ち着いていなさい」と言われた経験を持っているのではないでしょうか。

その言葉は、直接的なダメージを与えるものではないけれど、何度も繰り返されることで、「自分の感じ方や動き方は間違っているんだ」と内面化してしまうことがあります。

そして大人になっても、その呪縛はなかなか消えません。

静かにしていないといけない場面でソワソワしてしまう自分を責めたり、うっかり会話に割り込んでしまった後でひとり反省会を開いたり。他人から指摘されなくても、自分で自分を監視している感覚がある人も多いのではないでしょうか。

それって、けっこうしんどいですよね。

「特性」と向き合うときのヒント

では、多動的な性質を持つ人が、自分らしく過ごしていくにはどうすればいいのでしょう。

ひとつは、環境との“相性”を意識すること。

人混みや静寂が苦手なら、働く場所や時間帯を選んでみる。作業に集中しづらいなら、短いスパンでタスクを区切ってみる。こうした工夫は、自己管理というよりも“自己保護”に近いもの。自分を責める代わりに、環境を自分に寄せていく視点です。

また、周囲とのコミュニケーションの中で、「自分はこういう傾向がある」と伝えることも、自分を守る手段になります。「集中力が続きづらいので、10分ごとに休憩を挟んでいます」など、理由がわかるだけで、誤解はずっと減るものです。

社会に求められる“多様さの許容”

ここまで「多動」に対する誤解や偏見について書いてきましたが、問題の根本には「みんな同じように振る舞うべき」という社会の空気があるように感じます。

でも実際には、人はそれぞれ違って当然なんですよね。

誰かはじっとしているのが得意で、誰かはじっとしていると逆に疲れてしまう。誰かは一点集中ができて、誰かは並行処理が得意。それなのに、「普通はこうだ」「みんな我慢してるんだから」といった声が優先されると、多様性はどんどん抑圧されてしまいます。

“合わせる”ことより、“活かす”ことを選べる社会へ。

そのためには、教育や職場、家庭などあらゆる場で、「違いを認める」という姿勢が必要です。そしてそれは、ただ表面的に受け入れるのではなく、「違いがある方が豊かだ」と思える土壌を育てることでもあります。

誰かの「うるささ」が、自分の救いになることも

最後に、私自身の体験を少しだけ。

かつて私の職場に、とても多動的な同僚がいました。会議中でも足を揺らしたり、突然話を切り替えたりすることが多く、正直なところ最初は少し戸惑っていました。

でも、彼女の存在があることで、場が動き、議論が広がり、閉塞感が和らぐ瞬間が確かにありました。

無意識に「静かでいるべき」と感じていた自分の思い込みに気づくきっかけにもなりましたし、「それ、今思いついたんだけどさ!」と勢いよく話し出す彼女の姿に、なぜか救われる気持ちになることも多かったのです。

人が自由に動き、話し、感じる。その中にこそ、私たちが見逃してきた「豊かさ」があるのかもしれません。

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